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間 一 髪 の 脱 出 ―退き波の中での千歳漁港からの避難― 根白 小坪智幸

三月に入り、凪の日が続いていました。

その日、三月三十一日も静かに晴れた日でした。父と母は二人で千歳沖に刺し網に行きました。私は漁協青年部で養殖をしていたワカメの収穫のため、朝六時から部員七人とワカメ刈りに出航。八時過ぎに収穫を終えて帰港し、皆それぞれ仕事があるので解散しました。私は前日に、父と母が「網を揚げたら千歳漁港に入る」と打ち合わせしていたので千歳に向かいました。

漁港に着くと、親戚の人たちも手伝いに来ていて、六人で網から魚を外していました。母は、祖母を病院に連れて行きながら税金の申告をして来ることにしていたのでいませんでした。その日はメガラ(沖メバル)が大漁で、網に掛かった魚を外し終わった時は午後二時を過ぎていました。

それから一服をし、明日の漁のために、「網たどかし」(次に仕掛けるための準備)をしていた時、地震が発生しました。海に浮かんでいる船が跳ね上がるほどの揺れの強さに驚き、皆その場に座り込んで揺れが収まるのを待ちました。「これはただ事ではない」と思いながら携帯電話を開いたら、既に通話が出来ない状態になっていました。すぐに船に乗り込み、エンジンをかけてFMラジオを聞きました。ラジオからは「大津波警報発令」との放送がありました。

そこで、手伝いに来てくれていた親戚の人達に、家に帰るように指示し、妻と二人で軽トラックに魚を入れた篭を積み込みました。妻の運転するその軽トラックが明神様の橋を過ぎて高台に上がっていくのを見届けてから、父と二人で岸壁に広げたままになっている網や樽、篭をまとめて、「船に積んでから沖に出よう」と思いました。ラジオは「震度6で、津波が来るから高台へ避難するように」と何度も繰り返していました。それが気になって余計気持ちが焦りました。

篭を積もうと、船を係留しているロープを握ったら、ロープがピーンと強く張っていました。津波の影響で既に潮が引き始めていて、網などを積み込む余裕がなくなりました。「すぐに逃げなければ」と思い、父と二人で船に飛び乗りました。そして係留しているロープを解こうとしたのですが、固く締まっていて解けそうにありません。慌てて出刃包丁で切って、急いで離岸しました。漁港内の水は緑色に濁り、防波堤の先には渦が巻いていました。千歳漁港は出入り口が狭く、すぐ側にはテトラポットや突き出た岩礁があって気を抜けないのですが、この時には退き波の勢いが強くて舵も利きません。船は防波堤の方に流されて行きました。もう自分ではどうすることも出来ない「ヤバイ状態」でした。焦りと恐怖から、「とう(父)、舵利かねえ。」と、表(船の前部)にいる父に助けを求めました。 「エンジンの回転を上げろ。津波に負けないように、もっと噴かせ!。」と言うのです。でも、船の舳先が防波堤の入り口に向いていないので、そうしたくてもそれが出来ませんでした。その時、一瞬、左右に揺れていた舳先が沖に真っ直ぐに向いた時を逃さないようにして一気にエンジンの回転を上げ、港を抜け出て全速力で千歳根(水深一〇〇メートル)の近くまで逃げました。その間、ラジオからは、「釜石四メートル」、「大船渡六メートル」と言っていたような気がしましたが、すでに津波が来たのかこれから来るのか、聞いていて聞いていなかったようで。まずは、無事に沖に逃れたので安堵し、ラジオが伝えてくるその後の状況を聞いて身体が震えてきました。

沖に出ると潮の流れが速く感じましたが、波の高さは全く分かりませんでした。周りを見回した時、大鮑の方に五・六艘の船がいるのを確認でき、仲間がいることに少し安心しました。

暫くして、根拠地にしている根白漁港の様子を聞こうと思ってその船のいる方に寄って行ったら、岸辺を白い飛沫を上げて根白の方に押し寄せて行く波が見えました。それが弁天崎の所で高くなって防波堤の赤灯台を呑み込み、その高さまで持ち上げられた船が一瞬でゴロンとひっくり返えるのが見えました。その向こうの吉浜海岸は、白い波頭が海水浴場の松林を被い、民宿キッピンを呑み込んで行きました。あまりの光景にただ唖然とするばかりでした。そして、気がつくと、船はワカメの筏のあった桐の木尻三列目の所まで流されて来ていて、そこにいっぱいあった筏は一つも見あたりませんでした。

「終わったなあ」と、これまでの自分たちの漁業の営みが断ち切られるような感じがしました。側にいた父が、遠方に虚ろな目を向けながら、「大へんな事ぁ起ぎでしまったな。」と、ボソッと言ったのを覚えています。その言葉から、何年、何十年とかけて築いてきたものが一瞬にして奪われ、無くなってしまった悔しさのようなものを感じました。どうすることも出来ず、ただ、津波に呑まれていく根白の地域を呆然と眺めているだけでした。

その内に引き波に変わり、沖に向かう流れが速くなりました。また、次の波が来ると思って千歳の前まで戻りました。千歳の磯や島は潮が引いて、今まで見たことがない根(海底にある岩礁)がいくつも現れ、赤黒い肌を見せていました。南に見える首崎は、先端の形が変わり、悪魔が襲いかかってくるような恐ろしい光景でした。

この間、何波の波が押し寄せてきたのかはっきりと分かりません。夕方になって、波が落ち着いて来た頃、ラジオから各地の被災状況が伝えられてきました。「大船渡の細浦地区壊滅」、「越喜来の浦浜地区壊滅」、「気仙沼は火事」、「南三陸町壊滅」など、悲惨な情報でした。その中で私達の吉浜の情報はありませんでした。心配になり、何度も根白が見える所まで戻りたかったのですが、辺りは暗くなり、西風が強くなって瓦礫が後から後から流れて来るので動けませんでした。

夜になり、いつも見えている家々の灯りも外灯も見えません。千歳の防犯灯(ソーラーシステム)と首崎の灯台の灯りだけが見えていました。真暗い吉浜を沖から見るのは怖いような感じがしました。雪混じりのかなり寒い夜でしたが、船が瓦礫にぶつからないように父と交替しながら支えて、一晩中見張りをしました。千歳にいた消防車が赤灯をつけて沖を監視していたので、船の無事を伝えようと思い、航海灯を点けて合図をしたつもりでしたが、伝わったかどうかは分かりません。ただ、その時の消防車の赤灯は、真っ暗な中にも、そこに津波に備えている人たちがいることが確認できて、すごく心強く感じました。

沖で一夜を過ごし、家に帰ることが出来たのは次の日の夕方でした。

今回は、間一髪、沖に逃げて助かりました。あの日は海が穏やかだったけれど、もし荒れていたら沖に出ることが出来ただろうか。父の豊かな経験と冷静な判断があって助かったけれど、もし独りだったら逃げることが出来ただろうか。陸にいる人たちに心配をかけたけれども、結果的には自分の命と、財産である船を守ることが出来たわけですが、果たして、あの時の判断と行動は正しかったかどうか、今も結論を出しかねています。

もう、二度とこんな目に遭わないようにと願うだけです。

津波体験記
間一髪の脱出
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千年に一度の大津波の体験
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記憶をたどりながら…
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後山 山崎多喜子
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