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吉浜の津波の歴史 上通 木村 正継

私達の住んでいる「吉浜」は、今回の東日本大震災で最も被害が少なかった地域として日本だけでなくアメリカ・オランダ・中東など世界各国からも注目され、「奇跡の集落」(アエラ)やミラクルビレッジ(ジャパンタイムズ)などと紹介されています。先人の教えを忠実に守って、津波の度に被害を大幅に減少させてきた数少ない地域として、今後起こる災害に備えることや、復興のあり方の参考にするために多くの報道陣や研究者が吉浜を訪れています。

吉浜は、長い間吉浜村と呼ばれていました。(明治前期に合併・独立複数回あり)古い時代には「葦浜」と呼ばれていたと言われます。「葦浜」は「悪し浜」と同じというので「吉浜」に改名したと相原友直氏が「気仙風土草」に書いています。

1.一九五六年(昭和三一年)九月三〇日
・綾里村・越喜来村と合併し、気仙郡三陸村となる。

2.一九六七年(昭和四二年)四月一日町制施行
・気仙郡三陸町吉浜となる。

3.二〇〇一年(平成一三年)一一月一五日
・大船渡市と合併し、大船渡市三陸町吉浜となる。

吉浜が、津波の被害を軽減してきた経緯を振り返って見たいと思います。その理由は、これだと一言で説明できませんが、色々の要素が組み合わさって実現したと考えられます。第一番目に最も大きなきっかけは、死亡・行方不明約一九〇人、流出・半壊三六戸という被害を受けた、一八九六年(明治二九年)の三陸大津波後、村長新沼武右衛門の指導により吉浜村の本郷の中心集落地からは、全ての家屋が移転したことです。

しかし、この時全ての人が高台に土地を準備できたわけではなく、山側の低地や中間的高さの場所に移転した人も多かったのです。昭和八年の津波後に高地移転を徹底したのが、八代村長柏﨑丑太郎でした。この二人の指導者とそれに全面的に協力し、その後もその遺志を継いでいる人々の総合力が現在の吉浜を作っていると思います。初めに明治津波後の指導者、新沼武右衛門のことから紹介したいと思います。

高地移転を指導した人の名前が「津浪と村」「三陸町史」「哀史三陸大津波」など、多くの出版物で新沼武左衛門と誤っているので、今回多くの報道でも誤って伝えられています。高地移転を指導した人は新沼武右衛門です。武右衛門は一八二九年(文政一二年)屋号「下水ノ口」(木川田家)に生まれ、「舘」の武兵衛の長女キクと結婚。一八六六年(慶応二年)数え年三六歳の時、父武兵衛死亡により家督と肝入職(村長)を引き継ぎます。武右衛門の前の肝入は、舅である武兵衛(除籍簿武平)その前の肝入は、同家の子孫と推定されるー忠兵衛ーその前に徳治がおりーその前が武平の父、有名人の武左衛門ーその父忠太夫ーその父忠兵衛ー新沼家は、肝入を世襲する場合が多く、忠兵衛の前が舅武兵衛ーその父五兵衛まで肝入を勤めています。五兵衛以前は不明であるが、夢庵如幻の幼少時、藩の役人が宿泊しているところから五兵衛の先代も肝入の可能性があります。

高地移転については、各地で同様のことが提唱され、実施されたにも関わらず次第に低地に家屋が建っていったが、吉浜では低地に家が建たなかった最大の理由は、明治二九年の津波後の全戸移転が実現したことがあると思います。その根本には、指導者への信頼感が強かった事があると思われ、その信頼感は、「舘」家歴代の人々に対する信頼も大きく貢献していると考えられます。

新沼薩摩・玄蕃父子に始まる吉浜城の歴代城主、瑞巌寺住職を勤めた夢庵如幻を輩出し、村人のために命がけで肝入を勤めた武左衛門を初めとする歴代の肝入たち一人も悪評が残っていません。しかも武右衛門は三〇年以上もの長い間村政を担当していました。信頼感と権限は絶大なものがあったと思われます。しかし、全ての家が高台に宅地を持つことが出来たわけではなく、中間的高さに移転した人々も多くいました。一九三三年(昭和八年)の昭和三陸大津波の被害家屋が二一戸(流失一一・全潰四・半潰一・床上浸水四・床下浸水一)だったが、被害が無かった家屋もあったので、正確な戸数は把握できていませんがその数三〇戸弱と推定されます。死亡・行方不明者一七名、その内三家族一三名は他所からの移住者で川口近くの炭庫に仮住まいしていた人達と言われており、もともとの地元の人の死亡者は四名です。津波後、復興地として造成した高台に一一戸が移転しています。(三陸町史四二八頁内務大臣官房都市計画課:一九三四  四三〇頁山口:一九六七)

聞き取りによると①鍛冶屋②中屋敷③新沼新三宅④隠居屋⑤今野坂治宅⑥川原新屋⑦上川原⑧片岸⑨やまよし⑩会社⑪新山神社社務所の、上記一一戸のようですが、さらなる確認を要します。③は流れなかったが、移転した人。
八代村長として、昭和三陸大津波の後、更に移転を徹底した柏﨑丑太郎は、明治大津波の際にも家族全員を失ったにもかかわらず新沼武右衛門に協力し村の復興に努めました。明治津波当時二四歳で丑太郎と改名する前で丑吉だった時。(但し、供養碑には柏嵜丑太郎と刻まれているので丑太郎という名前は正式改名前にすでに使用していたようです。)

明治津波の翌三〇年に正寿院前の津波記念碑(供養碑)建立の代表世話人でもあります。丑太郎は米を作るための水田が極度に少なく、米を買って食べるためもあって貧しい村だったと感じており、明治三陸大津波で集落と田三.七町歩・畑五.八町歩が流されて、一部は山林化して荒れ地になっていた土地を大正一五年から昭和六年までかかって開田しました。開田面積一二町歩、水路八〇〇余間総工費四五,七三五円、国・県からの助成一五,〇〇〇円の補助を受け、残りは低利の政府資金等を借用してこれにあてました。完成後間もなく、昭和三陸大津波により元の荒れ地に戻ってしまったが人命や家屋の被害が明治三陸大津波の被害に比べ極端に少なかったことは、人々に高台に移転することの重要性を再認識させることになったことは間違いないと思います。国、県の補助もあって昭和八年後の復興地の造成は短期間に完成しています。(丑太郎は一九四六年(昭和二一年)三月一八日まで村長として在職、会議中倒れて同日盛町の娘宅で死亡。)

その後も高地への移転が続いて、今回の東日本大震災の時には、本郷地域の人家の被害は、全壊二、床上浸水二でした。人家以外の被害は、民宿一・造船場一・事務所一・漁協関連施設数棟がありました。このように吉浜の被害が少なかったのは、偉大な二人の先人とその考えに共鳴して高所移転を実施した人々、そして、漁業を生業にしていくには非常に不便であるにもかかわらず、指導を疑うことなく現在に引き継いでいる人々(現在七八歳・津波石発見者でもある木川田平三郎さんも約2キロメートルの距離を一五キログラムくらいの漁具や弁当などを担いで漁業を続けた一人)がいるからだと思います。

この疑うことなく、自然に引き継いでいることこそが「防災意識」の高さであり、それを雄弁に語っているのが目の前の風景だと思います。一八九六年当時、船を持って漁業をしていた本郷地区の人々は、八七戸中、一一戸と少なかったこともありましたが一九三三年当時、船を持って漁業をしていた本郷地区の人々(増舘・扇洞除く)は、四五戸とかなり増加していたにも関わらず、低地に家を建てる人はいませんでした。昭和八年当時も現在も人々の意識は非常に高いのですが、そのことを特に意識している人はいません。「低地に家を建てないのは、ごくあたりまえのこと」と誰もが先祖からの言い伝えを自然に思っている。これが、他市町村のように繰り返し大きな被害を受けない地域になり、某報道機関の「奇跡の集落」などという題名のように被害の少ない地域になった主たる理由だと思われます。

今度の津波の後も、以前にも増して高台移転が進み、農地の集積が図られ、全国のそして世界の津波危険地帯の手本になるように情報を発信してゆきたいものだと思います。

付 記
根白の眞稱寺が創建された一六一一年(慶長一六年)には大津波が東北沿岸を襲いました。岩手県でも五メートル~二〇メートルもの高い津波が記録されています。この時、根白は八~一〇メートルの津波に襲われましたが、被害がなかったことがスペインの金銀島探検隊長セバスチャン・ビスカイノの「金銀島探検報告」によって知ることが出来ます。この時越喜来は四メートルの津波で被害を受け、陸前高田でも被害を受けていますので、吉浜の本郷地区も被害を受けたのではないかと思われます。この津波の後、吉浜にも何度か津波が来たようですが東北沿岸では大きな津波被害がなく、明治の大津波は慶長以来二八五年ぶりの大被害だったという研究報告もあります。

参考資料
1.三陸町史
2.昭和震災誌
3.哀史三陸大津波
4.津浪と村
5.新沼舘家文書の内、「肝入退役願」・「高願御 聞判」106年間の土地移動159件を記録した663枚を元NHK古文書講座の講師である大船渡市在住の渡辺兼雄先生に解読していただいた解読書による。ちなみに「岩手県姓氏大辞典」の記述にない人々の名前がここに何人か記されている。
6.柏﨑恭氏の「岩手の農業をつくる人々」55 ・柏﨑丑太郎の巻(上)(下)に詳細な記述があります。
7.セバスチャン・ビスカイノ「金銀島探検報告」

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