- 千年に一度の大津波の体験 千才 佐藤善公
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もう少しがんばって、この日でワカメの間引き作業を終える予定だった。桐の木尻四列目で作業をしている時に地震があった。「ゴゴゴゴー」というような変なエンジン音がして、「変だなあ」と思ってエンジンを停めてみると、それでも「ゴゴゴー」という音がしているので、「これはエンジンではない」と不思議に思っていると、前に見える山の中腹から下の部分が黄色い粉が蒔かれたように見えていた。「これは杉花粉だ。とすると地震だ。」と思った。前にも同じ現象を見たことがあったからだ。
その時、携帯電話が鳴った。開くと釜石に働きに行っている娘からだった。「地震があったけど大丈夫。津波が来るってよ。」と言っていた。「分かった。大丈夫だ。」と告げて電話を切った。この時は、「大したことはないだろう」と思っていた。辺りを見回すと、湾を取り巻く山がぐるっと杉の花粉で被われ、霞がかかったようになっている。側の三列目で作業していた同級生の東晃君が舟を寄せて来て、「おい、地震だ。根白が陥没したぞー。ただ事でねえぞ、入るべ。」と言った。晃君の舟は船外機で、舟足も速かったので先を行き、私もその後を港に向かった。そのとき、沖の方に出て行く船も見えた。「あの人は津波から避難して沖に出るんだな」と思った。「自分は、沖に出るには燃料が足りないし、津波は来たとしても、いつものように六〇センチとか一メートルだろうから、港に入ればどうにかなるだろう」と思いながらハンドルを握っていた。その時点では、まさかこのような大津波が来るということは全く頭になかった。
根白漁港に着くと、潮が引き始めていて岸壁が高くなっていた。そこに木村洋太郎さんが来て、ロープを投げてくれたので急いで船を抑え、軽トラックで高台になっている「下っ原」の倉庫の所まで上がった。
そこで沖を見ていると、低かった海面がみるみる内に上がってきて防波堤を越えて来た。新しく作っている外の港に係留されていた「満福丸」が埠頭に上げられ、大きい船体がゴロンと横倒しになった。そして水が退いていく時、そのまま海に戻されてひっくり返ってしまった。埠頭から流れ落ちる水は、大きい滝を見ている様だった。この時になって、「港に帰るのが間に合って良かった」と思い、怖くなって身震いがした。
一端退いた水は、またものすごい勢いで防波堤を越え、養殖の作業場の緑の屋根まで一気に呑み込んだ。バリバリという船が潰される音やブツッブツッというようなロープが切れるような不気味な音が聞こえてきた。係留されていた何十艘もの船は転覆し、渦の中に引きずり込まれたりして、みんな瓦礫となって流されて行った。
「下っ原」の倉庫の所にいた私は、「ここは危ない」と思い、もっと高台になっている欠畑の冷蔵庫前に移動した。ここでは漁港の様子はあまり見えなかったが、前の海には赤や青の底を見せた船や瓦礫が浮かび、大きな渦を巻くように濁った水が激しく動いていた。そして水が引いていく時に防波堤が崩れ、その先にあった灯台も斜めに倒れた。吉浜湾全体の水が退き、平浪の前や増館の方の磯が底の方まで、薄い赤色をして見えていた。その場に二〇人ぐらいの人達がいたが、「ああああ」とか、「うわあああ」という声しか出なかった。私の隣にいたお年寄は、沖に向かって手を合わせ、何かブツブツ言いながら一心に拝んでいた。
何波の波が押し寄せたのか分からない。ふと、家のことや娘のことが気になって、千歳の家に向かった。家にいた家族はみんな無事だった。ただ、電話が利かないので娘との連絡がとれないとのことだった。また、叔父(かじや)の家が波にさらわれてしまったことも聞いた。そして、その叔父がホタテの篭を吊しに行ったまま帰っていないという。心配事がいっぱい出てきて、何から考えればいいのか分からなかった。
まず、娘を捜しに釜石に向かうことにした。日が暮れて辺りは暗くなっていた。途中、荒川地区は家が倒れたりしているようだった。唐丹の駅の所まで来ると、道路に家が押し倒されたり火事が起こったりして、消防団が交通整理をしていた。どうにか通り抜けて平田のトンネルを抜けると渋滞だった。一時間くらい止まったりのろのろ走ったりしていたが、歩いている人たちがいたので様子を聞くと、「通れない。」と言うことだった。諦めて、ここから引き返すことにした。
夜になって、娘は帰ってきた。「車に便乗させてもらったり歩いたりしながら来た」と言うことだった。叔父は、船で沖に逃げて、仲間の船といっしょにいて無事だという情報も入ってきた。心配は少し消えていった。
次の日から、自分は千歳部落の役員になっているので、みんなといっしょに今後の対策を考えて、活動することになった。食料や水の確保の問題があった。灯油やガソリンも不足している。また、終末処理場が破壊されてしまったので、水洗便所の使用の問題もあった。それらは、吉浜地区対策本部や市の方に交渉しながら、一つ一つ解決することができた。
一番大きな仕事は、対策本部から来る救援物資等の配達だった。これは、役員の奥さん方の手を借りながら全戸に区分けして配達した。二ヶ月間ほど続いた。大へんではあったが、続けている内に全国から寄せてくれる人々の真心に頭が下がる思いがした。
あれから一年が経とうとしている。この間、漁港の片付けや瓦礫撤去作業、ワカメ・ホタテの復旧作業があり、毎日参加してきたが、何だか時間の経つのが早く感じる。あっという間の出来事だったように感じる。
これまでに、吉浜では定置網も始まり、鮑採りもできた。ワカメももうすぐ収穫できる。「またやれる」という方向が見えてきたように思うこの頃である。
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