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直立した壁「津波」 扇洞 柏﨑博七

二〇一一年三月一一日、海抜約三〇メートルあり、扇洞漁港の真上になっていて、一八〇度 海が見える「なんか別家」の庭先で吉浜湾内の津波を見た。

みるみるうちに海水が引いて、根白漁港から増館付近まで岸なりに、陸続きとなった。

根白から釜の崎付近までは、ピンク色のような薄い小豆色のような転石地帯が広がった。また、つぶて石地先から釜の崎まで、沿岸漁場整備開発事業で鮑等の大規模増殖場として造成された場所がある。岸から二・三百メートル離れた所に、横長に五カ所ほど中空三角コンクリートブロックが土手(離岸潜堤)のように沈設されている。縦方向から眺めたので、そこは黒っぽい小山のように見えた。

やがて引いた波が戻ってきた。鳥居島付近から波頭が白く砕けて、弧を描きながら湾奥に向かって来た。なぜか進度はそれほど速いとも、大きな波だとも思わなかった。ところが、岸に至ってからは、どんどん後から海水が押してきて、みるみるうちに水嵩が増大し、扇洞漁港の防波堤もその背後の岩場までも、また根白漁港にある吉浜漁協の事務所も、吉浜漁港にある作業保管施設も水没して見えなくなってしまった。弁天崎から釜の崎付近へ向かって、黒い海水が目の前をかなりの速さですうっと流れていくように見えた。

引き波、押し波が繰り返された。引き波のとき、扇洞漁港側は海水が静かに引いたように思ったが、向こうの横石・増館側は吉浜川の河口から増館漁港の方へ、急な浅瀬の川面のように、たくさんの凹凸をつくりながら速い流れが続いているようだった。このような押し波引き波を見て、吉浜湾全体で大きな渦が巻き起こっているように感じた。

眺めていて一度だけ不思議な情景を見た。

向こう側の鳥居島付近からこちら側の弁天崎付近まで、突然高さが二十メートルくらいの大きな直立した壁のような海(水壁)が現れた。今にもこのような海が覆いかぶさってきそうな恐怖を感じた。最上部は普通と違い青波のままで、白波が出ることもなく水平に一直線になっていた。こんなのに出会ったら船はひとたまりもないと思った。とっさに千歳沖に避難している船( 扇洞:雷神丸、芳栄丸、むつ丸 根白:喜福丸、栄宝丸、弁天丸、栄漁丸、権現丸 千歳:大磯丸 吉浜:大関丸 )がいる方向を眺めた。千歳沖の海はあくまでも平らで、静かで、凪そのもであり、何事もなかったかのようだったので安心した。

そのとき気づいたのだが、水壁は弁天崎の岸まではいたっていないことがわかった。(だから二つの間から千歳沖の方まで見通せたのだ)次に増館の方を凝視してみると、海岸近くの林には海水が到達している様子は感じられなかったので、直立した水壁のような波は、南北とも岸から離れていたのである。この水壁は湾の奥に近づくにつれ、いくらか低くなって無くなってしまった。

津波は引いたり押したりを何回か繰り返したけれども、高い壁のようなのは一回しかなかった。なぜこのようなことが起こったのか疑問が残った。

津波は、沖の方は静かなのに岸近くに来て急に盛り上がったり、流れが速くなったりするので油断してはならない。自然の巨大な力の前には、人間はどうしようもないことがあるとあらためて強く実感させられました。

昨年の三月の大震災から一年が過ぎましたが、あっという間の一年だったような気がします。

あの日、まだ寒い日が続いていて、家の灯油がなくなったので、買って来ようと思い、軽トラックにポリタンクを積んで大船渡の立根を走っている時に突然車がゴトゴトと揺れました。「これは大きな地震だ」と思い、すぐ車を停めて降りたところ、近くの山がものすごい音を立てて震動するのです。それもなかなか収まらず、四、五分続いたように思います。すぐ車のラジオをかけたら、「津波警報」が出されました。「高い所で三メートルくらいの津波が予想される」というニュースでした。私は、これはとんでもな大津波が来るのではないかと思い、灯油を買うのは諦めて急いで家に引き返しました。

家に着いた時はまだそれほどの津波が来てはいませんでしたが、何気なく向こうの増館の方を見たら、今朝は静かだった海が急に波が高くなって白いしぶきが見えていました。まさにこれが大津波の始まりだったのです。急いで港の方に下りて行ったら、前に造成した「西村家」の宅地の所に十二・三人の人が港を見下ろしていました。そして、私の顔を見るなり、「今、お前さんの加工場が流されていったぞ。」と言うのです。半信半疑で加工場が見える所まで下りて行って見ると、確かに跡形が無くなって、路面には水たまりができて津波が来たことを物語っていました。何と、漁港は水が退いて、港の底の岩がむき出しになり、赤黒く見えました。そこに転覆した船が寄せ集められて折り重なっていました。地獄を見ているようで恐ろしくなりました。

その内にまた、バリバリというものすごい音がしてきて波が押し寄せてきました。それがたちまちの内に防波堤を越え養殖作業場の屋根まで見えなくなりました。船がみんなひっくり返ってどれがどれだか全く分かりません。みんな渦に巻かれていました。そしてまた水が退いていったとき、防波堤が倒壊し、折り重なるように寄せ集められていた船がすっかりさらわれて行ってしまいました。

何年も前から、学者の人達が「近い将来、三〇年位の間に最大で一八メートルくらいの津波が来る確率が七〇パーセントだ」と言うのを何度か聞いたことがあります。それにしても、「千年に一度」と言われるこの大津波に、まさか自分が生きている間に遭遇するとは思ってもみませんでした。これまでも、けっこう大きな地震は何度となくありましたが、これと言って大きな津波はありませんでした。

私が小学校だった頃、「チリ地震津波」があって、潮が退いていった後の岩場に行ってウニや鮑を採って食べた記憶があります。あの津波も歴史に残る大きな津波だったわけですが、海の水が静かに上がったり下がったりしたことを覚えています。だから、今回も「大きい津波と言っても大したことはない」と思っていました。ましてやラジオでも「高い所で三メートルくらいの予想」と言っていたのですから、誰しもがこんな大津波になるとは考えられなかったと思います。

今回、これほどの被害が出たということは、国や県、市も、住民も、みんなに油断があったのだと思います。もしそれくらいの予想をしていて、それなりの備えが出来ていれば、この先進国日本で、福島の原発の事故も無かったはずだし、あれほど大規模に停電したり電話、防災無線が使い物にならなくなったりするはずはないのです。

でも、今、起きてしまったことは仕方がないことです。今さらとやかくいっても始まりません。ただ、被災した今の日本は、家族や親族を亡くしたり、家が流されたりして落ち込んでいる人達がたくさんいます。一番大へんなのは福島の人達です。いつ帰られるか分からないのです。こういう可愛そうな被災者の人達に、しっかりと救いの手を延べていくべきです。世界中の人達からも義援金をいただいたり励まされたりしてきました。本当に有り難いことです。

それなのに、政治家は何をしているのでしょう。自分のことしか考えていないように思います。本当に腹が立ちます。もっと力を入れて対策を立てて欲しいと思います。

私は、今回の「大地震と大津波」のことは、この政治のことも含めて、今後、子ども達にしっかりと語り継いでいかなければならないと思い、ここに不慣れですがペンを取りました。これからも一日も早く元の姿に戻れるようにみんなでがんばっていきましょう。

津波体験記
間一髪の脱出
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「あの日 あれから」
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千年に一度の大津波の体験
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記憶をたどりながら…
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海を相手に主人といっしょに
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あらためて先祖に感謝する日々
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あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
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[寄稿]組合の復旧・復興
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