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平成の三陸大津波  三・一一 あの日 あれから 下通 欠畑時子

私達家族は、吉浜海岸の側で「海の家」を兼ねた「民宿キッピン」を経営していました。

あの日、青森から来ていた長期のお客様が仕事を終え、朝八時に帰って行きました。私達家族は掃除を済ませ、長男夫婦は自宅に戻り、私は主人と二人で久しぶりにのんびりと炬燵に入ってお茶を飲んでいた時でした。ものすごい勢いの地震です。棚からは次々と物が落ち、食器やら花瓶、玄関の置物が割れて散乱しました。さらには防火扉が大きな音を立てて閉まったりしました。テレビの情報を見る余裕などありません。私達二人は柱にしがみついていました。

数分後に揺れが収まりました。練炭火鉢を玄関に置いていたことを思い出し、急いで道路に出して軽トラックに積み込みました。非常用のバックは私が持ち出し、それぞれの車で高台にある自宅を目指しました。途中、水門を閉めに行く消防団車とすれ違いましたが、津波のことが念頭にありましたから、とっても気がかりで、「早く海岸から遠ざかるように」と祈りました。

自宅は特に変わりはなかったので、さらに高台へと車を走らせ、吉浜食堂の前を通り過ぎて和野別家の脇に車を止めました。漁港に舟を繋いでいたことも心配で、そこで海の様子を見ていると、作業してた数台の軽トラックと、水門を閉めに行った消防車が高台に走っていくのが確認出来ました。数分後、その消防自動車は、サイレンを鳴らしながら集落中を回り、懸命に避難を呼びかけていました。吉浜食堂の所には、下から避難して来た人たちが集まって、心配そうに海を眺めていました。

その時です。静かだった海が少しず動き出した思ったら急に水嵩が増し、松林のところの防潮堤を越えて来ました。何と、その防潮堤から越えて落ちてくる海水は、テレビや写真で目にしたことのある「ナイヤガラの滝」のようでした。

これが第一波でした。数分後に来た次の波では民宿キッピンの一階が隠れてしまい、どんどん押し上げてくる波で田んぼが呑みこまれていきました。そして、その海水がものすごい速さで引き始め、鮭の孵化場や造船所を洗い流していきました。

漁港の方に目をやると、舟揚げ場の辺りの磯や松倉、増館漁港の沖の方まで、見たことのない岩場が不気味な姿を現したかと思うと、今度はものすごい速さで大きな大きな波が襲ってきました。私の側で見ていたお年寄りは、「舟え流れだ・・ 、松あ倒れだ・・・」と力なくつぶやきながら腰を落として座り込んでしまいました。波は渦を巻くようにして沖田耕地・川原耕地を荒らし、吉浜海岸の松や舟をさらっていきました。そして第三波と見られる大きな波では、民宿キッピンの三階までがすっぽりと覆われて姿をかくし、その水が引いた後には鉄筋だけになっていました。五〇〇メートルもあった防潮堤は海の方にずたずたになって倒れ、松林は一本も残っていません。皆、声も出せず、ただ黙って海を眺めているだけでした。

そうしている内にいろいろな話が聞こえて来ました。中学校の生徒は全員が無事だということでしたが、その時、昼に預かっている、分家にした二男の子ども(小学生の孫)が気になって学校まで迎えに行きました。学校では、先生方も子ども達も全員が校庭に出て、保護者に子どもを返しているようでした。残っている子は五・六人で、その中に孫もいました。聞いてみると、全員が無事だったとのことで安心しましたが、もう少し早く迎えに来てやれば良かったと思い、悔やまれました。

夜になって、共稼ぎをしている二男夫婦が帰宅時間になっても帰って来ませんでした。中学生とその小学生の孫は、両親を心配して口数も少なく、顔色もよくありませんでした。

早めの夕食を済ませた後、主人が、「今から会社に行って見て来る。」と、私に言ってきました。同居している長男は、消防団で出動中でしたので、二人の孫を嫁に託し、私もいっしょに行くことにしました。

まず、母親の勤める立根のタカラ製作所に行って、無事を確認しました。次は、父親(二男)の勤める会社がある赤崎に向かおうとしたのですが、ここは中井の所で通行止めになっていてそれ以上は進めませんでした。結局二男の安否は確認出来ずに帰ることにしました。家に帰ると、母親が帰って来たことで子ども達も少し元気を取り戻していました。

その夜は、皆で寄り添って横になり、二男のことを考えて心配したり、時折起こる余震に怯えたりしながら休みました。小雪がちらつく寂しい寂しい夜でした。

三日後、一四日の昼になって外で洗濯をしているときに、その息子が疲れた様子で私の前に立ち、「上司から車を借りて、やっと帰れだ。」と言うのです。嬉しくて嬉しくて、家族みんなで涙を流したり大声をあげたりして喜び合いました。

それから四・五日過ぎた頃、ラジオを聞いていて、多くの死者や行方不明者が出ていることや家が流されて困っている人たちのニュースが次から次と聞こえてきてびっくりしました。本当に心が痛むばかりでした。

大津波から数ヶ月過ぎたある日、私は民宿の跡地に行ってみたくなり、変わり果てた川や田んぼを眺めながら裏庭と思われる所の白い砂の山を歩いていたところ、砂の中よりうっ すらと黄色の芽が出 ていることに気付き、手で掘ってみると、二〇年前に民宿を始めた時、私が記念に植えた紫陽花の芽でした。早速掘り出して家に持って帰り、塩分を荒い流して花畑に植えてやりました。何日かすると緑の葉をつけ、夏には一〇センチほどの大きさになりました。その苗を二本に分けて植えました。来年はきっときれいな花が咲いてくれることと思います。

学校が夏休みに入ってから、中学生になった孫娘が友達といっしょに海岸に散歩に行った時、やっぱり民宿の跡地に行ってみたくなって、行ったそうです。その時に舟の形をした刺身皿が砂に埋もれ、先端の部分が出ていたのを見つけて、掘り出して持って帰って来たそうです。嫁が言うには、孫は、その皿の砂を落とし、夜は風呂に入れて洗っていたとのことでした。それを聞いた時、私は涙が出て来て止まりませんでした。その皿は、内孫の姉妹が小学生だった頃から民宿の手伝いをした時、壊さないように気をつけながら何度も洗った皿でしたし、懐かしい物だったはずです。今、そのお皿は茶の間の隅に置いて、民宿の思い出にしています。

民宿キッピンからは、一部の地域は見えませんが、湾全体を取り囲むように点在する吉浜のほとんどの集落が見えました。そして、朝日の昇る水平線や太陽に煌めく海、白い航跡を残して走る船、船、船、海水浴客で賑わう砂浜、夏の終わりからは、湾口に一直線に並ぶ漁り火を見ることが出来ました。

陸上に目を向けると、赤と青のストライプの入った三陸鉄道、鮭の遡上する川、四季折々の彩りを見せてくれる山々があるのです。とってもとってもいい眺めでした。

大津波からもうすぐ一年になろうとしています。吉浜の皆さん方には「民宿キッピン」を何度も何度もご利用いただきました。本当にありがとうございました。今回、「民宿キッピン」は失いましたが、私達の家族は皆、無事でしたし、ここに書ききれないほどのたくさんの思い出が残りました。また、全国のあちこちの方々からはお見舞いが届き、いっぱいいっぱい勇気づけていただきました。

私は、これから温かい家族と共に、この吉浜で出来ることをしながら一生懸命生きたいと思います。

最後に、震災で、亡くなられた方々のご冥福をお祈りして、私の「津波体験記」とさせていただきます。

津波体験記
間一髪の脱出
根白 小坪智幸
「あの日 あれから」
下通 欠畑時子
千年に一度の大津波の体験
千才 佐藤善公
思い出の津波石
下通 柧木沢正雄
養殖筏は消え防潮堤は
根白 渡部 寛
記憶をたどりながら…
千歳 水上和子
巨大地震と大津波に遭って
下通 柏﨑タホ子
海を相手に主人といっしょに
扇洞 柏﨑久美子
遙か遠く 奇妙な水中が
根白 白木澤行夫
あらためて先祖に感謝する日々
中通 柏﨑功夫
あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
扇洞 柏﨑博七
大六山林道を通って帰った
根白 白木澤行夫
吉浜の青い穏やかな海の眺め
増舘 菊地きみ子
震災後の大野公民館
大野 菊地正人
その時、根白部落は
根白 木村茂行
吉浜の農地復興を考える
大野 菊地耕悦
定置網大謀さんにインタビュー
根白 東 邦博
鍬台トンネルで停車した三鉄
三鉄 休石 実
[寄稿]組合の復旧・復興
漁協組合長 庄司尚男
[寄稿]吉浜の津波の歴史
郷土史家 木村正継
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