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思い出の「津波石」―二度も繰り返した偶然― 下通 柧木沢正雄

八〇才を過ぎて定まった仕事もなく、毎日の日課は散歩することで、それが唯一の楽しみだ。コースは家から約六〇〇メートル 離れた海岸の防波堤。 いつも午後二時頃に家 を出て三時頃に帰って 来る。メンバーは、同 級生の柿崎門弥君と二つ年上の白木澤平七さんだ。

あの日、三月一一日に限って午前一〇時半頃に出かけて行ったら、二人のメンバーも先に来ていた。何の打ち合わせをした訳でもなし、偶然の一致か。 散歩した後、堤防に腰を下ろし、いつもの昔話に浸っていた。話が進むにつれ、いつしか津波石の話に変わっていった。「俺たちが小さい頃、橋の向こうに『津波記念』と彫った大きな石があり、その上にあがって遊んだもんだった。今では向かい側に道路が出来て、あの石が道路の下になって約半世紀近くなる。誰の記憶からも消え去り、永久に日の目も見ないでこの世から没してしまうなんて惜しいなあ。今あれば、『津波を考える石』として町の文化財にもなってたのになあ。」と言うと、柿崎君は、「そのうち大きな津波が来て道路も流され、また姿を現す時は来るさ。」と、冗談を語りながら帰路に着いたのだった。

その四時間後、言った言葉が乾かないうちに、誰もが忘れることができない、あの世界を震撼させた大津波の来襲だった。

その日は、誰もが津波の話一色で一昼夜が過ぎた。 次の日の朝、一人で散歩コースを見に行ったら、柿崎君も来ていた。二人は無言で顔を見合わせ、ただただ、唖然とした。見れば向かい側の道路も崩れ落ち、見るも無惨な瓦礫の山となっていた。言うまでもなく二人は昨日の話に戻った。「おい、昨日の話だが、津波石に頼まれて津波を呼んだようなもんだ。あの石が出て来たんじゃないかな。」などと語り、その場所まで行ってみたかったのだが、川口の橋が落ちてしまって行くことが出来なかったので、その日は確かめることが出来なかった。 

それから二週間後に、向こう岸を通る仮設の道路が出来たので、柿崎君がバイクで行ってみたら、崩れ落ちた道路の下に「津波石」らしいものが見えているということであった。それが本物なら貴重な物だと思い、吉浜の歴史などの研究をしている木村正継君と、昔、道路工事に参加したという木川田平三郎君にも呼びかけて、四人でスコップ等を持って早速出かけて行ってみると、一メートル四方くらいの石が頭を出していた。それから掘ること二時間余り、掘っても掘っても一字の文字すら見えて来なかった。土が固くて、人の力では困難だったので、きょうのところは打ち切りにしようと諦めかけた時、木村君が流れ着いたバケツで水を汲んできて泥をかぶった石にかけると、泥が流れ落ち、何と、石の上に「津波記」の三文字がくっきりと見えたではありませんか。

それから、市役所に出向いて市長さんに事の子細を話したら、市長さんも関心を持って下さって、「後日、瓦礫の片付けに重機が入るから、それを利用して掘ってみましょう」ということになった。

二ヶ月後、重機が到着した。同時に新聞・テレビ等各報道陣も押しかけて来た。皆が見守る中、水をかけながら重機で土を取り除くこと三時間半余り、石の全体が見えた。半世紀ぶりのご対面だ。その時の感動は今でも忘れることはできない。

石の正面には大きな字で「津波記念石」とあり、その下には「前方約二百米突吉浜川河口にアルタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波ニ際シ打チ上ゲラレタルモノナリ重量八千貫」と刻まれてあった。石の体積は、縦三メートル八〇、横三メートル一〇、高さ二メートル、誠に大きな石だ。これを二百メートルも運ぶ津波のエネルギーはものすごいものだと思う。

せっかく現れたこの大石が、今後二度と没することがないようにして、津波の威力を永久に後世に伝えていくようにしてほしいものだ。

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