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巨大地震と大津波に遭って 下通 柏﨑タホ子

三月一一日、霙混じりの雪が降り、とっても寒い日でした。生まれ里で幼い時から食べた刈谷納豆を買いに、「オメェ」店に行く途中でした。足が地に着かないような大きな揺れに驚き、やっとの思いでつま別家まで戻ったら、この家の如奈ちゃんも急いで外に飛び出して来ました。二人で手を取り合って、あっちによろけこっちに飛ばされ、生きた心地がしません。「日本は沈没するっ」と思いました。

正直、その時は津波が来るとの思いは全くありませんでしたので、地震の収まりを待って家に向かいましたが、戻る途中、防災無線のサイレンが鳴り、大津波警報が出され、大船渡に第一波の津波が来たことも放送されていました。

家に帰って田んぼの方を見ると、田んぼは真っ黒い波が寄せ、一面が海になっていました。川口橋の袂にある三階建てのレストハウスキッピンが水に浸かってしまったのは第二波だと思いましたが、その引き波は吉浜海岸の防潮堤と松林を一瞬にしてさらって行ってしまいました。その後、このような波が六波くらいまで来たでしょうか。この繰り返しで吉浜の田んぼはすっかり流されてしまいました。

また、沖の方を見ると、普段は小さく見える鳥島が海の水が引いて下の方まで姿を現し、ものすごく大きい島に見えたり、引いていく波と押し寄せてくる波がぶつかり合って山のような水しぶきがあがったりしました。その凄まじさに、ただただ震えていました。

駅裏の高台にある我が家の前で、近所の人たち数人が集まっていましたが、その目にした様子にみんなの口から出る言葉は、「アー」とか、「ウワー」とかで、唖然として見ているだけでした。

その内、また大きい余震が来たので怖くなり、避難場所になっている拠点センターに行きました。大勢の人たちが避難しており、消防団の人たちもいて、少し気持ちが楽になりました。

避難場所ではいろいろな情報が入っていて、私の実家のある越喜来が全滅だと聞いた時には本当に驚きました。幸い、私の実家は、明治二九年の津波の時に流されて高台に移っていたので大丈夫でした。

おばあさんから、津波で流され、ひっくり返った萱屋根に載って助かった話など、津波の怖さを聞かされて育ってきましたが、今、巨大地震と大津波を目の当たりにして、とにかく「地震が来たら津波がくる」ということを肝に銘じ、高台に逃げること、そして、今回の津波を、後々まで語り伝えることが大事なんだとつくづく思いました。

津波体験記
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巨大地震と大津波に遭って
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[寄稿]組合の復旧・復興
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