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吉浜の農地復興を考える 市議会議員 吉浜農地復興委員会事務局 大野 菊地耕悦

アメリカの新聞「USA TODAY」は、吉浜のことを「"Lucky Beach" I lives up it's name.(吉浜はその名に恥じずラッキービーチ)」として紹介しています。しかし、吉浜は単に “Lucky ”だったわけではありません。明治三陸津波(明治29年)のときの新沼武右衛門村長、昭和三陸津波(昭和8年)のときの柏﨑丑太郎村長の先導によって、地域が一体となって低地部にあった集落を道路とともに山麓に移転させ、低地部を農地に転換し、その後、低地部にはけっして戻らなかった。こういった諸先輩の努力があって、今の吉浜の土地利用が出来あがっていたため、他の地域と比べて被害が小さかったものと考えます。

ところで、吉浜でも、実は一名亡くなっています。また、住宅も四戸全壊しています。漁業関連施設や漁船も甚大な被害を受けました。また津波の被害を受ける前、低地部の農地では遊休地が目立っていたことも事実です。「吉浜」が「葦浜」にならないように、漁業、農業、観光が一体となった復興および地域活性化をはかっていかなければなりません。

今、吉浜農地復興委員会では、「数十年の間には、必ずまた、大津波が来ると想定。来襲しても犠牲者はもちろん、瓦礫もほとんど出ない故郷づくりを目指す」という理念のもと、以下のような復興計画を考えています。

防潮堤(第一堤防)を高くせず、巨大津波では越 流を覚悟するものの、第二堤防を山麓にある住宅と 低地部の農地の間に設置し、住宅への浸水を防ぐ。 また、第二堤防は階段状に整備することによって、 低地部からの避難を容易にする。

第二堤防上には集落道を整備し、その集落道は(いざという時に備え)大型トラックが国道45号線から容易 にアクセスでき、集落を通過できる幅員とする。また、 平常時には観光バスが海岸まで行けるようにし、観光、 第六次産業化による地域活性化をはかっていく。

低地部の農地は、今までより大きな区画に整備し、 換地処分で飛び地を解消して営農を容易にし、団地 間に段差を設けることによって津波の勢いを弱める とともに、農地としてきちんと利用することにより、 危険地帯(低地部)への住宅建設を抑止する。

岩手県立広田水産高校(現:県立高田高等学校広田校舎)には「海を恐れず、海を侮らず、海に逆らわず」という校訓があります。「海の惠と海の力」とどう付き合っていくのかが、吉浜の永遠のテーマです。智恵を集め、百年先も安心して住める地域を作っていきたいと強く願っています。

"forever lucky Beach"

津波体験記
間一髪の脱出
根白 小坪智幸
「あの日 あれから」
下通 欠畑時子
千年に一度の大津波の体験
千才 佐藤善公
思い出の津波石
下通 柧木沢正雄
養殖筏は消え防潮堤は
根白 渡部 寛
記憶をたどりながら…
千歳 水上和子
巨大地震と大津波に遭って
下通 柏﨑タホ子
海を相手に主人といっしょに
扇洞 柏﨑久美子
遙か遠く 奇妙な水中が
根白 白木澤行夫
あらためて先祖に感謝する日々
中通 柏﨑功夫
あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
扇洞 柏﨑博七
大六山林道を通って帰った
根白 白木澤行夫
吉浜の青い穏やかな海の眺め
増舘 菊地きみ子
震災後の大野公民館
大野 菊地正人
その時、根白部落は
根白 木村茂行
吉浜の農地復興を考える
大野 菊地耕悦
定置網大謀さんにインタビュー
根白 東 邦博
鍬台トンネルで停車した三鉄
三鉄 休石 実
[寄稿]組合の復旧・復興
漁協組合長 庄司尚男
[寄稿]吉浜の津波の歴史
郷土史家 木村正継
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