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他所に先駆けて定置網を再興した吉浜漁協大謀の東邦博さんへのインタビュー
大謀さんは、あの三月一一日はどこにいて、何をされていましたか?
税金の申告で、農協会館にいるときに地震があっ た。揺れが大きくなってきて、「天井が落ちて来る のではないか」と不安になり、会場の後の方にあっ た太いパイプの陰にしゃがんで収まるのを待った。
「この地震では絶対に津波が来る」と思ったので、申告どころではなくなり、申告用紙も投げ捨てて急 いで吉浜に戻った。途中、越喜来の三陸ドライブインの所から海の方が見えたが、その時に海岸の防潮 堤を越えて来る真っ白な波が見えた。「来たな、やっぱりな」と思った。
吉浜にさしかかり、羅生峠から海を見た時、吉浜湾の半分くらいの水が無くなり、赤っぽい底が見えていた。これをみた時は不気味で「この世の終わりか」と思った。とにかく、「家が潰れていないか、家族がどうなっているか」「切り上げの時に、再開に手間取らないようにと考えて、防波堤に置いた定置網の資材がどうなるか」が心配だった。
根白で目にした津波は、どんな様子でしたか?
海の様子が気になったので、家に向かわないで、木村の所から下りて行った。西村の屋敷の所で五・六人が海を見ていた。それより下は行けなかった。自分も車を停めて、海を見ると漁港内は水が引いて海の底には船がひっくり返って、赤や青の船底を見せてゴチャッと固まっていた。
漁協の事務所の上には舟が乗っていて、事務所全体が津波に襲われたことが分かった。ワカメやホタテの作業場も破壊され、屋根に船が載っていた。気になっていた定置網の資材も流されて跡形も無かった。
この時、「みんな終わったな」と思った。
吉浜の漁業はどうなると思いましたか?
半世紀もかかって作ってきた防波堤が壊れ、復旧するにも何時になることやら見当がつかない。赤崎に置いた定置網の作業船(ダンパツ)も無事である望みはない。漁協の事務所は壊滅状態だし、ワカメ・ホタテの筏は全滅して手の施しようがない。「ないない」ばっかりで、漁業には未来が無いと思った。
半分冗談だが、自分は内陸へ行って、昔ならした「板前」をしようかと、女房と話していた。
そんな絶望的な状況の中で、他所に先駆けて定置網を復旧したわけですが、「やれる」と言う見通しを持ったきっかけは何でしたか?また、やれたのはどうしてですか?
組合長は、これまで「今期限りで身を引く」と語っていたが、この津波を見てそれをとり消し「復興に向けて先頭になって頑張る」と明言した。となれば、「男っちゅう者は、ここで引き下がるわけにはいかない。俺も頑張らなくては」と思った。

六月に組合員の全体協議会を持った時、どっかのテレビ局が来ていて「復興できますか?」とマイクを向けられた時、「絶対に復興させてみせる。」と応えたが、あの時、「潜ってでも魚を捕まえてやる」という気持ちだった。とにかく、がんばるしかないわけで、「ドックに置いたダンパツの一艘が無事だった」し、瓦礫の中から「定置網で大事な『がわ側』を、引っ張り出して整えることができた」し、「気球観測所の跡地を作業場として、網をいっぱいに広げて仕事をすることも出来た」ということも、効率的に作業を進める時に大へん良かった。

何よりも、「組合長が現場を信頼して、要求した資材をすぐに揃えてくれたこと」に勇気づけられた。また、吉浜では民家がほとんど被災しなかったので、水夫達(自分も)は仕事に専念することが出来たということがあって、やれたんだと思う。水夫のみんなが頑張ってくれたからだねえ
七月になって他所に先駆けての網おこしをして退寮しましたが、どんな気持ちでしたか?
「とうとうやったぞ」という、何とも言えない嬉しさでいっぱいだった。大漁旗を掲げて大船渡の市場に入った時も、市場中の人たちがみんな喜んでくれて、歓迎されているという実感があった。
吉浜の人たちの期待を背負っていたわけで、まず責任を一つ果たせたと、ホッとしたところもあった。しばらく「銀サケ」の漁が続いたが、七月の後半だったと思うけれども、クロマグロを四五本獲った時には気持ちも最高潮だった。「大漁旗」をなびかせて「御祝い」を鳴らして根白に帰って来た時は、水夫みんなの気持ちが喜びで一つになって、「漁師名利」というか凱旋して来るようないい気分だったねえ。
今年の水揚げについて、どのように評価していますか?
今年の場合、未曾有の大津波被害があったわけで、始まりも遅くなった。組合長も吉浜の人たちも「充分過ぎるくらいだ」と言ってくれるが、結果的に、目標額に届かなかったので、自分は満足するわけにはいかない。とにかく、魚が来る来ないは、時の運 だとしても、言い訳をして甘えるのではなく、網を仕掛ける時に、落ち度無く、しっかり構えていくことが大事だと思う。
今後の見通し、「抱負」を・・・
今回の経験で、「海を嫌いになった」という人もいるが、「『海』が悪いんではなく、津波が悪かったんだ」と思う。自分は、いつも「太平洋銀行」と言うんだが、海は漁師のがんばりに正直に応えてくれると信じている。
とにかく、責任者は何を言おうとも結果を出さなければ誰からも認められない。来年は「津波」の言い訳ができないから、かえってプレッシャーも大きくなるだろうから大へんだ。
でも、今回の大津波を経験して、怖いものがなくなった。やればどうにかなっていく。
とにかく前を見て、頑張るだけだと思う
津波体験記
間一髪の脱出
根白 小坪智幸
「あの日 あれから」
下通 欠畑時子
千年に一度の大津波の体験
千才 佐藤善公
思い出の津波石
下通 柧木沢正雄
養殖筏は消え防潮堤は
根白 渡部 寛
記憶をたどりながら…
千歳 水上和子
巨大地震と大津波に遭って
下通 柏﨑タホ子
海を相手に主人といっしょに
扇洞 柏﨑久美子
遙か遠く 奇妙な水中が
根白 白木澤行夫
あらためて先祖に感謝する日々
中通 柏﨑功夫
あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
扇洞 柏﨑博七
大六山林道を通って帰った
根白 白木澤行夫
吉浜の青い穏やかな海の眺め
増舘 菊地きみ子
震災後の大野公民館
大野 菊地正人
その時、根白部落は
根白 木村茂行
吉浜の農地復興を考える
大野 菊地耕悦
定置網大謀さんにインタビュー
根白 東 邦博
鍬台トンネルで停車した三鉄
三鉄 休石 実
[寄稿]組合の復旧・復興
漁協組合長 庄司尚男
[寄稿]吉浜の津波の歴史
郷土史家 木村正継
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