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交通が遮断され 大六山林道を通って帰った 根白 白木澤行夫

「鎌田水産」の冷蔵庫で、本社から来た人達七人といっしょに「サンマの荷造り」作業をしている時に地震がありました。これまで経験したことのない大きな地震で、「冷蔵庫の中の物が倒れるのではないか」と気が気でありませんでした。

地震は長く感じましたが、五分から七分ぐらいだったでしょうか。揺れが収まってから、私は「絶対に津波が来る」と確信して、本社から来ていた人達や従業員をすぐに避難させるために車の手配をし、高台の県立病院に向かわせました。自分もすぐに続こうと思ったのですが、「冷蔵庫に鍵を掛けなくてはならない」と思って、また、中に戻って全体を見て回っていたので少し遅くなりました。

車に飛び乗って、急いでプライウッドの通りを県立病院に向かったのですが、「とにかく早くここを抜けなければ」思いながら進んでいくと渋滞になってしまたのですが、そこから知っている脇道に入り、どうにか津波に追いつかれずに県立病院にたどり着くことが出来ました。

そこで先に避難している従業員と落ち合って無事を確かめ合ってから津波の様子を見ていたのですが、川口橋の橋桁に、上流から流されてきた家が引っ掛かって燃え、それが波といっしょに上に戻され、海水が退くとまた橋桁に引っ掛かり、何度も行ったり来たりしているのが見えました。また、プライウッドの屋根には三人の人がいて、一生懸命助けを求めているようでした。自分が走ってきた道に渋滞していた車は、マイヤ中央点に寄せ集められて、クラクションの音が暫くの間鳴っているのも聞こえて来ました。泥水の中に倒壊したたくさんの家が流されていて、目の前には、それはそれは考えたこともないような惨状が広がっていました。ほんの数分の違いで自分も巻き込まれたかもしれないと思うと、本当に怖くなり、身体がゾーッと冷えていくように思いました。

夕方になり、会社は被災してしまったので、この際従業員を家に送り届けようと思い、車のある人で手分けして送って行くことにし、自分は末崎と小友から来ている人を送り届け、立根でもう一人降ろして吉浜に向かいました。その時には夜になっていました。

羅生峠を越えた時に、ふと「吉浜も被災しているのではないか」と思い、川口橋があるかどうかが心配でした。それで、拠点センターに寄って消防団から状況を聞くと、案の定「通れない」ということでした。

それで、羅生峠まで戻り、話に聞いたことのある「大六山林道」を通ってみることにしました。もう夜中です。辺りは真っ暗で、しかも初めて通る山道で不安だったのですが、とにかく家に帰って家族の安否を確かめなければ落ち着きません。家族は家族で自分のことも心配しているだろうと思ったのです。

その山道は、うっすらと雪が積もっていましたが、どうにか崎浜線まで出ることができました。崎浜線は、途中崩落箇所もあったのですが、石を除けたりしながらどうにか家に着く事が出来ました。着いた時は、午前一時になっていました。皆、心配して起きて来ましたが、とにかく家族が皆無事で安心しました。

次の日、一二日、増館では、崎浜線の道路を確保するためにみんなで土砂を除ける作業をしました。そして、午後には、部落内の損傷した家の屋根等の修復に当たりました。手に負えない所は、シートを掛けて応急措置をしました。

ところが崎浜線は、余震が続いているためにすぐには土砂で埋まってしまいました。再度、みんなで声を掛け合って作業しているとき、自衛隊の車が通りかかり、「困っていることとはないか」と聞くので、「緊急車両が通れる崎浜線の道路の確保」と「生活道路として、横石線を通れるようにして欲しい」旨を伝えると、すぐに重機を持ってきて対応してくれました。本当にありがたいと思いました。

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