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鍬台トンネルの中で急停車した三陸鉄道 三六―一0五号 三陸鉄道南リアス線運転士 休石 実

三月一一日、この日、私は三陸鉄道三六ー一〇五号を運転して、吉浜を発車したのが一四時四三分でした。お客さんは六〇歳前後の男の方と二〇歳代の難聴の青年の二人でした。数分走って鍬台トンネルです。トンネルの頂上にさしかかった時に地震がありました。揺れがだんだん大きくなってきて列車が左右に揺れ、「脱線しないか」「壁に当たるのではないか」と心配でした。ブレーキを掛けてスピードを落としかけているとき、大船渡の指令室からの無線電話で、「止まれ、止まれ」という指示が出ました。どうにか脱線することなく、壁に当てることもなく停車することが出来ましたが、そこはトンネルの中間地点でした。暫くの間、そのままで指令室からの指示を待っていたのですが、それがなかなか来ません。その内に無線電話が通じなくなっていることが分かりました。携帯ももちろん通じません。トンネルの中は真っ暗です。そんな中で余震があって、その度にトンネルの上からぱらぱらと何かが落ちて汽車の屋根に当たる音がします。「トンネルが落ちてきて潰されるのではないか」とか、「出口が塞がれてしまうのではないか」という不安に襲われたりしましたが、乗客にそんな様子を見せるわけにはいかないので、「大丈夫です。すぐに動きます」と、不安にならないように声をかけていました。内心は自分に言い聞かせているようなものでした。

でも、その指示が待っても待っても来ません。乗客からは、「今どうなっているんですか。」「本当に動くんですか。」と、何度も何度も聞かれるのですが、規則があって、「車両から離れることができない」ことになっていますので、動きがとれなかったのです。それでも、この際仕方がないと思って、トンネルの中にある電話の接続端子に繋いでみることにしました。汽車から降りて、唐丹方面と吉浜方面にある端子のあるところまで歩いていって接続してみたのですが無駄でした。

それで、今度はトンネルの外の様子を見てくることにしました。お客さんには、汽車はブレーキと歯止めでしっかり停めてあることや何分後に必ず戻ってくることを説明して、歩き始めました。歩きながら、「こんなことは規則違反であることは知っていてやるわけだから、何か問題が生じた時は自分の責任になるのかなあ」ということが気になってしょうがありませんでした。

鍬台トンネルは四キロメートルほどあります。ちょうど中間地点で停車しましたから、唐丹方面に出るも吉浜方面に向かうも同じ位です。唐丹方面は出口が見えて明るくなっていました。でも、その時の心境をはっきりと思い出せませんが、懐中電灯を出してからどういう訳か吉浜方面に向かって歩きました。

二〇分ほど歩くとトンネルの入り口があります。扇洞の「川古荘」の所に出ました。そこに、川古荘のお母さんがいましたので、汽車の停車したことについて話そうとしたら、トンネルの外の世界は「汽車」のことどころか「津波」で大へんな騒ぎであることを知らされました。「ただ事ではない」と思いました。そこで、「こうなったら指示を待っていられないから二人の乗客を連れて来よう」と思い、もう一度トンネルの汽車に引き返しました。

二人の乗客を連れて出てきてから、川古荘で休ませていただき、今後の対策を考えました。二人の行き先を聞いてみると、一人は釜石で、一人は宮古でした。そこで、国道四五号線に出て、ヒッチハイクをすることにしました。小学校の脇を通ってガソリンスタンドの所まで来て車を止めようとしたのですが、「道路が寸断されていて釜石まで行くことが出来ない」というのです。そこで、盛の方に戻ることにしました。それも簡単には見つかりませんでした。通りかかったワンボックスカーに無理にお願いしたら、「三陸の道の駅までならば」ということで、三人いっしょに乗せてもらいました。そこでまた、盛までの車を探し、どうにか戻ったのですが、会社が被災していて、連絡の取りようがありませんでした。それで、二人を市役所の避難所の方にお願いし、自分はいったん猪川にある家に帰りました。会社の人たちはどうしたか、とても気がかりでしたが、まずは家族が無事であることを確かめ、ホッとしました。

あれから、もうすぐ一年になります。今、三陸鉄道では再興にむけて、線路の復旧や車両整備等に取り組んでいるところです。トンネルで止めた汽車は、しばらくの間、吉浜駅に置いてイベント等に貸し出すことにしています。昨年の秋には、吉浜拠点センターでもたれた「三陸文化祭」のときに、「食堂」としてご利用いただきました。本当にありがとうございました。

吉浜の皆さん方にはこれからもお世話になります。どうぞ、宜しくお願いします。

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