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遙か遠く 南の方向に 奇妙な水中がたった 根白 白木澤行夫

妻と二人でメガラ(沖メバル)を獲る刺し網をしかけるためにGPSで「千才根」を目標に走行している時でした。もうすぐ目的地だというところで船の底からゴトゴトゴトゴトと変な音がして船が揺れました。スクリュウにロープか何か流れ物を引っかけたと思い、急いで停船しエンジンを止めたら、まだゴトゴトしています。「何だこれは」と、一瞬戸惑ったのですが、すぐに地震だということに気付きました。船から振り落とされそうになりながら、ブリッジにしがみつき、周りを見わたしながら直感的に「大津波が来るなあ」と私も妻も思いました。

釜石の尾崎から首崎まで一望できる沖合なので、唐丹の山、千歳の白石、首崎の岩山が見事に崩れ落ちるのが見え、山という山が花粉と土煙で真っ白くなり、何とも言えない光景です。

その後、すぐに釜石無線局の漁業無線では「大津波警報」を発して、水深二〇〇メートルまで避難するように何度も何度も呼びかけています。「いつ、どのように津波が来るんだろう」と辺りの様子を伺っていると、首崎の沖の遥か彼方(私の船からは南の方向)に不思議な現象を目にしました。最初はイルカの大群が跳ねているのかと思ったのですが、「いや、そんな小さな物ではない」と思いながらよく目を凝らして見ると、何と海面に水柱が立っていたのです。自分の目の錯覚かとも思ったのですが、間違いなく水柱です。何十キロメートル先、宮城県の沖の方にも見えます。その時、首崎の沖を南に向かっていた貨物船が急に南東方向に向きを変えて走り去って見えなくなりました。きっとその貨物船も前方の水柱を目にしたので進路方向を変えたのだと思います。

その水柱とはどんなものか、うまく表現できませんが、両方の腕を、手の掌を上にして真っ直ぐ前に出し、左右交互に二〇センチメートルくらい上げ下げしたような状態に見えました。手許で二〇センチメートルということは、その遥か先では何十メートルという高さになるのだと思います。

とにかく見たことがない現象だったわけですが、その時には水柱のことよりも、こんな大きな地震は初めての経験ですから「絶対津波が来る」と確信して、その対策を考えることにしました。「自分の船は」となると、まずこうして沖に出ているから安心です。家の方は倒れたり何か損傷がある場合には後で考えるとして、同居しているのは今いっしょに乗船している妻と二人ですからそれも心配要りません。そんなことを考えている時、関東にいる二人の娘から、私と妻の携帯に連絡が入りました。ところが「ああ、今、船の上だから・・・」と言った時、「プツン」と切れてしまいました。そしてその後、二度と繋がりませんでした。

これは余談になりますが、その時、私と妻は「少しでも娘達と連絡が取れて良かったねえ」と話していたのです。ところが娘達は、テレビで津波の様子を見て「電話が途切れたのは船が転覆したからだ」と考えたようです。何と、塩釜の海上保安部にまで電話をして、「『栄宝丸』の父と母を助けてくれ」とお願いしたそうです。後で聞いて、この認識のちがいに笑ったり泣いたりしました。

話を戻しますが、そうこうしている時、北は唐丹の金島付近と南の首崎から白く泡立つ波が見え、それがだんだん湾の奥に入って行って茶色の波となり、盛り上がって行くのが見えました。その時点で、私の船は水深一二〇メートルにいたはずですが、妻が言うには、「魚群探知機が一二七メートルを表示していた」そうです。とすれば、海面が七メートルほど上昇したことになりますが、船の上ではこの上下は感知することは全くありませんでした。穏やかなものです。でも、無線から漁船同士の対話も入ってきて、その中には釜石の湾口防波堤を出ようとしている船が、押し寄せてくる津波のために難儀をしているものもありました。「瓦礫がいっぱいだ」「潮の流れが速くて出られない」と言うのに対して、先に出ることができた船から、「退き波に替わるからその時を狙って出て見ろ」というアドバイスのようでした。その後もさまざまなやりとりがあったようです。その無線から、あちこちで大きな被害が出ている様子が伝わってきましたが、私の船がいる所は「津波」など感じさせない静けさでした。

夕方になり、沖に出ていた仲間の船の側に行って様子を聞いてみると、「根白漁港は破壊され、瓦礫がいっぱいで港に入っていけない」ということでした。確かに船の周りには発泡スチロールや木材、き球、ロープなどのゴミがいっぱい流れてきていました。暗くなってきて、このままでは船が流されるので定置網の標識灯にすがって夜を過ごそうと思い、側に行ってみたら、つい先ほどまで点滅して見えていた標識が四メートル位沈んで見えなくなってしまいました。ということは、正確に時間は見ていなかったのですが、この時間にもまだ津波が押し寄せていたことになります。標識灯にすがることが出来なくなったので、この船を造った時に、万が一の時のことを考えて準備していたアンカーを船倉の底から出して海中に放り投げました。このアンカーは、この時、十数年ぶりに初めて使用することになったのでしたが、側にいた「栄漁丸」と「大磯丸」が、私の「栄宝丸」の後ろにロープで繋がって、この晩は船の上で明かすことにしました。

辺りは真っ暗になり、雪混じりの風も強くなって寒くなってきましたが、私の場合はヒーターの付いているブリッジの中にいることができましたし、釣り客用にホッカイロも準備していました。食料も漁に出かける時にいっぱい積み込んでありましたので「腹が減る」とか「寒い」なんてことは全くありませんでした。ついうとうとしてしまうこともあったのですが、それでも「また来るかも知れない津波を警戒」しなければならないし、サーチライトの先に見える「二つに分断された船の残骸」など、川のように流れてくる瓦礫を棒かぎで押し避けたりしなければならなかったので油断はできませんでした。

そんな長い長い夜が明けて、辺りを見回すと海面にゴミがいっぱい散乱していました。ワカメやホタテの養殖イカダはあちこちに寄せられて固まり、中には転覆した船があったり海水浴場の松林から流れてきた大木が横たわったりしていました。岩場の方には、あちこちに舟が打ち上げられています。高い木の枝にロープや浮き球が掛かったりしていて、だいたい波が打ち寄せた高さが分かりました。

結局、私達が上陸できたのは津波の翌日、一二日の夕方になりました。防波堤が倒壊し、船が消え、瓦礫が散乱した根白漁港は惨めなものでした。漁協の事務所のガラスが全部なくなり、屋上には小漁用の舟が載っていました。漁業の望みが絶たれたような何とも言えない寂しい気持ちになりました。

あれから一年が経つ今、吉浜では国や県、市からたくさんの補助金を頂くことができて、漁業の復旧が大きく進んでいます。定置網が他所に先駆けて始まり、「キッピンアワビ」で名前の通っている名産品の「鮑」採りも出来ました。港や船はまだまだですが、希望を持てるようになってきてほっとしているところです。

ただ、今でもときどき思い出して不思議に思うのは、前記した「遥か遠くに見えた水柱」のことです。地図を開いてみると、自船から見えたその水柱の方向は、「東日本大震災の震源地」の方であるような気がするからです。あの時、首崎の沖で南に向かっていた貨物船が、急に南東に方向を変えて見えなくなったわけですが、その時の船長さんの航海日誌を開いていただいて、「平成二三年三月一一日、午後二時五三分頃」に私が見た水柱を見なかったかどうか、お聞きしてみたいものです。

津波体験記
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