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その時、根白部落はどんなことをしたか 根白朋友会役員 根白 木村茂行

二月四日(H24)、木村養殖組合長より「間引き新ワカメを部落の方々に差し上げたいので根白朋友会に協力をお願いしたい」との連絡があり、六万丈ほどの「新ワカメ」が届いた。早速、部落放送で全戸に知らせたところ、部落民の方々が駆けつけ、あっという間に配布が終了した。待ち望んだ新ワカメだけに大事そうに抱えて帰る人たちを見て、ひどく感慨深い思いを感じていた。私も有り難く頂戴した。

未曾有の大災害に遭った当初は、一年後にこういう状況が来るとは到底想像できなかったので、人間の力の偉大さに心から敬服せざるを得なかった。

あの日、三月一一日、私は確定申告の最終日であったことから、慌てて午後一時三〇分頃に会場である市役所三陸支所の相談会場に駆けつけ、一時間程度順番待ちをしている矢先の出来事であった。経験したことのない激しく長い揺れに、ただただ茫然と揺れが止むのを待つしかなく、それでも、揺れが収まったとき冷静に確定申告の手続きをするつもりでいたが、どうしても胸騒ぎがして、実家の様子を確かめるべく支所駐車場から車を発進させた。三時頃だったような気がする。逡巡している時間が長かったらどうなっていたか分からない。帰途、国道に岩石が散乱しており、危うくのりあげそうな状況であった。家族は何とか無事で所定の場所に避難していたが、家の中は惨憺たるものであった。

間もなく海岸からギシギシという異様な音が響き、漁船が激しく漁港内でぶつかり合い、沖へ沖へと吸い込まれるように流される光景が目に飛び込んできた。「津波だ」ただならぬ様子に、近所の人たちが一斉に集まって来てはいたが、誰一人大騒ぎするでもなく、持ち船が引き波で海中に消えていく光景をただ茫然と見つめている。

津波が去って、被害状況が徐々に明らかになるにつけ、情報が極端に不足するだろうと考えていた。この時点で、陸前高田や大槌・越喜来などが壊滅的な被害であったことなど想像すらできなかった。

冷静さを取り戻したところで何をしたら良いか考える間もなく、寺澤朋友会長、岡﨑防災会長が早々に役員を回り、公民館集合の号令をかけ、まず、手分けして独居老人の安全確認を優先的に行い、避難が必要な世帯に対し、公民館への避難誘導した。ただ、地域外で働いている地区民の安全確認は携帯電話などの不通により遅々として進まなかった。防災炊き出し班を招集し、米を持ち寄って炊き出しを開始。当初、公民館への避難民は一四名を数え、消防団を含めた人数分のおにぎりと味噌汁はなんとか確保することができた。

一夜明け、睡眠不足ではあったが、状況確認を行ったところ、根白地内にいた住民については安全が確認された。沖に逃れた仲間に対する食糧補給も比較的安全な千歳漁港から何とか届けることもでき、日毎に、他所に働きに出ていた地区民も苦労をしながら一人また一人と帰って来ることができた。一〇日後、最終一人の安全が確認され、人的被害は地区民に限っては皆無であった。しかし、婚姻などにより、他地域に移住した人の中に、多くの悲劇的情報がもたらされた。

根白朋友会及び防災会は、公民館前に仮設の小屋を建て、住民からのストーブなどの供給を受けて対策本部を設置、連日、役員や地元住民の相談や要望を受けることとした。

この中で、
 1 当面の生活資金の確保をどうしたらよいか
 2 生活弱者の日用品や食料をどう確保するか
 3 ライフライン(電気・電話)の復旧はどうなるか
 4 深刻なガソリン不足にどう対処するか
といった切実な問題が次から次と浮上し、一時対策本部も混乱したが、話し合いの中でガソリン使用は緊急の場合を除き、効率的に利用することが重要との観点から、部落役員が地区民の要望を聞き取り、日用品や介護用品、食料品の調達を一手に引き受け、便宜を図ることとし、毎日、大船渡への買い出しを行った。生活資金やガソリンについては吉浜漁協の計らいにより、少ないながらもどうにか乗り切ることができた。 幸いライフラインの内、「水」は根白特有の簡易水道のお陰で不自由しなかったし、ガスも一部不足を見たもののプロパンガスであったことから大きい問題にならなかった。しかし、電気がなかなか通じず、全戸通電までに一ヶ月近い時間を要した。水洗トイレの終末処理場が被災したため、屎尿処理も大きな問題となり、住民にトイレの使用を禁ずる呼びかけを個々にお知らせしたが、それぞれ山中に穴を掘って用をたしたり、畑に蒔くなど昭和三〇年代に戻ったような生活も余儀なくされた。そんな中にあって、食料を分け合ったり、発電機を貸し借りしたり、風呂を共用したりと、互いに協力して忍耐強く復旧を待ったものである。

少し落ち着きを取り戻してきた頃、新たな問題に対応する必要が出てきた。
 1 高校生の通學手段の問題
 2 地区外からの避難民への食料支援と住民の生活支援
 3 漁船や養殖施設消失に対する補償問題
 4 今後の漁業復興のスキーム
など、不安の解消に部落としてどう対処していくかなど、困難な問題も話されるようになってきたことから、吉浜漁協の対策本部と毎日のように情報交換や住民の要望を協議しながら地区住民の不安解消に少しでも役立つように努めてきたところである。

吉浜漁協組合長の英断により、生活資金の貸し出し、漁船や養殖施設の復旧などは他地域に先駆け、「住民説明会の開催」や監督官庁への素早い対応・陳情など、部落と漁協が一体となって取り組みできたことは特筆すべきことと考えている。多くの問題を抱えながら遅れる政府方針を横目に、漁民の生活のため大変な尽力をされたことは誰しもが認めることであろう。

嫌な事ばかりではなかった。悲惨な映像を目にした地元出身者から心温まる支援物資の提供や菩提寺からの大量の蝋燭提供など、日を追う毎に支援も充実して、生活物資は十二回も全戸配布することができた。対策本部も設置から四十日後に解散している。なにもかも初めての経験であり、多少混乱もあったり地域住民の満足いくような対策が講じられたかどうか反省も多いが、現在、落ち着きある根白の暮らしに照らし、役員としてご堪忍いただきたいと思っているところである。

「夢か現か幻か」、夢か幻であってほしいと何度も思うが、これはまさしく現実であって、今後千年は語り継がれる「史実」である。根白は大半の人々が海からの生活の糧を得てきたこともあり、海を捨てて陸に上がろうと考えた人は少ないと思うが、つくづく人間は強い生き物だと考えさせられる。ハードの面の復興は道半ばでまだまだであるが、人々の力強い足取りは既に峠を越えたと確信している。

将来、地域住民が茶飲み話で「昔、こんな人がいて、漁民の生活を守ったとか、定置網を他所に先駆けて復活したとか、養殖がこんな人たちの努力があって次の年には収穫出来たとか」歴史に刻まれる大きな出来事として語り継いでいって欲しいものである。

津波体験記
間一髪の脱出
根白 小坪智幸
「あの日 あれから」
下通 欠畑時子
千年に一度の大津波の体験
千才 佐藤善公
思い出の津波石
下通 柧木沢正雄
養殖筏は消え防潮堤は
根白 渡部 寛
記憶をたどりながら…
千歳 水上和子
巨大地震と大津波に遭って
下通 柏﨑タホ子
海を相手に主人といっしょに
扇洞 柏﨑久美子
遙か遠く 奇妙な水中が
根白 白木澤行夫
あらためて先祖に感謝する日々
中通 柏﨑功夫
あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
扇洞 柏﨑博七
大六山林道を通って帰った
根白 白木澤行夫
吉浜の青い穏やかな海の眺め
増舘 菊地きみ子
震災後の大野公民館
大野 菊地正人
その時、根白部落は
根白 木村茂行
吉浜の農地復興を考える
大野 菊地耕悦
定置網大謀さんにインタビュー
根白 東 邦博
鍬台トンネルで停車した三鉄
三鉄 休石 実
[寄稿]組合の復旧・復興
漁協組合長 庄司尚男
[寄稿]吉浜の津波の歴史
郷土史家 木村正継
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