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記憶をたどりながら・・・・今 思うこと 千歳 水上和子

あの悪夢のような三月一一日。晴天の穏やかな朝をいつも通りに迎え、あと二日で終わるはずのホタテ稚貝分散作業に出かけた。ほとんどの家では終わっていたので、浜にはいつもの賑やかさはなく数人だけの作業風景だった。

昼食をとり、「早ぐしまうべし、行ぐがぁ」との夫の一言で、いつもより一〇分ほど早く午後の仕事に出かけ、ホタテ分散作業の終了後、夫は篭をイカダに吊すために船で沖に向かい、私は作業場を片付けた。漁協に用足しがあったので事務所に行こうと思った時に夫の船が港に帰ってくるのが見えたので、手を上げて指先で漁協を指し示して、事務所に行って来ることを告げた。

二階のカウンターで手続きを終えたまさにその時だった。底から突き上げてくるような音とともに、大きな揺れがすぐに身体をゆさぶった。カウンターにしがみついたが、身体のバランスをとるのも容易ではなく、職員の「伏せろ!」という声に、その場に伏せたものの、血の気が引いていく自分の身をやっとの思いでカウンターの中に這いつくばりながら入って行った。それでも揺れは収まらず、だんだん大きくなり、物の倒れる音がしたり、事務所ごと崩れてしまいそうな激しさに、「何かがちがう」と、そんな状況下でも、フッと頭をよぎるものがあった。「だめだ!外に出ろ!」と、またしても職員の声で、全員、まだ揺れている階段を必死で下り、外に飛び出した。恐怖からか、地震の長さは五分とも六分とも感じた。外に出てから、「大丈夫?」と、女子職員に手を握られ、震えている自分に気付き、夫のいる方に走ったが、今にして思えばあわてていたのだろう。車で来たことを忘れ、ここでまた、「くるま!くるま!くるま!」と職員に叫ばれるのである。職員の方が振り絞るように三度叫んだ声で迅速に避難できたことを、後に思い出し、心から感謝した。

軽トラックに飛び乗って夫の方に向かったら、夫も走って来た。しかし、私は身体の震えが止まらないので運転を替わってもらい、漁港から高台に続く坂道を上がり、自宅のある千歳へと向かった。

夫の話では、地震のすぐ後、係留していた船が大きく左右に揺れはじめ、「津波が来る」と、とっさにそう思ったと言う。すぐ、防災放送で津波警報は聞いてはいるが、それほど緊迫感のあるものではなかったように記憶している。

自宅の前で私を降ろし、夫は船が気になって根白に引き返して行ったが、その前に「鳶の巣崖」に上がり千歳の海を見下ろしたら、すでに遠くまで水は引き始めていたという。地震から二〇分くらいは過ぎていただろうか。それから根白に向かい、高台から目にした海は異様なものだったと言う。海はだんだんと盛り上がり、その高さを増しながら漁港を、船を、作業施設を、坂道の横の倉庫を、あらゆる物を破壊し、呑み込んで行く。そして引き波は、まさにすさまじいもので、まるでおもちゃの船でも転がすかのように轟音をたてながらいとも簡単に大型漁船を沖堤防の外に持ち上げ、押し倒したという。その威力に、我が家にまで津波があがったと思い、夫はあわてて帰って来た。

先に千歳に戻っていた私は、家の中を見回し、目立った損傷がないことを確認し、すぐ皆のいる避難所へ上がって行った。そこには子どもを含め、十数人の人たちが余震が続く中、不安そうに集まっていた。ここからは津波の様子はほとんど見ることができない。「『かじや』が流された」「善公さんがまだ戻らない」「かじやの勝一さんが沖にいる」「『向かい』にも津波が上がった」さまざまな情報が誰からともなく飛び交う。ほどなくして「かじやの勝一さんは、数艘の船と共に沖に避難して無事である事」、「善公さんはぎりぎりに入港し、戻ってきたこと」が分かり、ホッとしたのもつかの間、「かじや」と「向かい」が流失した事も知り、大変な事態になっていることを思った瞬間でもあった。

その後、海の様子が気になり、海を臨める「高屋敷」の庭に行ってみると数人の人たちが集まっており、ビデオを構えている人もいた。そこから覗く港からは、あのかつてのすばらしい景観の千歳港は消えており、連なっている島々は下まで見え、防波堤に囲まれた港の中には水はなく、数艘の船が青や赤の船底を見せて無造作に横たわっている。

その後も、何度も繰り返す津波は港に下りる階段をもぬらし、ひっくり返ったまま残っていた船をも再び沖へさらっていった。

それから、「小向」まで下り、「かじや」が跡形もなく無くなっている事、「向かい」は母屋の外観だけを残し、無くなっている事を目の当たりにした。その時「かじや」の下の海に浮かんでいた屋根らしきものを見た記憶がある。津波は「志茂」の庭まで来ていた事も初めて知った。

夕方、部落全員で公民館に集合し、持ち寄ったストーブで暖をとりながら、役員・消防団の方々が中心となり、それぞれの所在確認をし、今後の事などが話し合われた。数人の人たちの安否確認が取れないまま恐怖と不安の一夜を過ごすことになった。

隣の越喜来などは、とんでもない被害状況であることが耳に入る。真っ暗な我が家に戻り、身内に連絡を取る術もなく、不安だけがつのる中、仕事にいつもより一〇数分早く出かけた事を考え、あの僅かな時間のズレを思い、恐怖がよみ返り、一睡もできずに外を見た時、何も起こらなかったかのように輝いている満天の星空が辛くもの悲しかったのを覚えている。

あれから一年を迎えようとしている。その間、部落で用意したマイクロバスで、皆で買い物に行った事、互いに食料を持ち寄った事、道路沿いの家で、いつも焚いてくれた薪ストーブで暖をとった事、不安の中で励ましあった事、小さな部落ならではの絆、人々の暖かさ、やさしさ、支援をいただいたありがたさ、言い尽くせないほど多くの方々の思いをひしひしと肌で感じた一年であった。

そして、家も命もある私達に何かできる事はないかと、自分も被災者でありながらさまざまな心の葛藤に苦悩した日々でもあった。

吉浜地区は、他の地区と比べ、確かに人的・家屋の被害は少なくて済んだが、それでも家を流失した方、大切な家族を亡くされた方、一人ひとりの思いは他の地区のそのような方々と同じ思いであり、受け入れがたい現実と向き合いながら、この一年過ごされた方達が吉浜にも存在すると言うことを忘れてはならない。

アメリカの新聞に、「ラッキー・ビーチ」と吉浜を賞賛される記事が掲載されたというが、決して運が良かったわけではなく、明治・大正・昭和と、先人達の豊富な体験と智恵で努力した結果が今日に活かされていると思う。

今、吉浜は急ピッチで復旧が進んでいる。共同作業ではあるが、ワカメやホタテの養殖も始まった。少しずつではあるが、明るい希望も見えてきたように思う。

海は牙を剥いたが、自然によって生かされている私達はこれからも自然と共存しながら、海の恩恵を受けつつ生活を営んでいかなければならないのも現実である。

やがて月日は流れ、穏やかな日々がきっと来ることを信じ、心を寄せ合いながら生きていけたらと願うきょうこの頃である。

津波体験記
間一髪の脱出
根白 小坪智幸
「あの日 あれから」
下通 欠畑時子
千年に一度の大津波の体験
千才 佐藤善公
思い出の津波石
下通 柧木沢正雄
養殖筏は消え防潮堤は
根白 渡部 寛
記憶をたどりながら…
千歳 水上和子
巨大地震と大津波に遭って
下通 柏﨑タホ子
海を相手に主人といっしょに
扇洞 柏﨑久美子
遙か遠く 奇妙な水中が
根白 白木澤行夫
あらためて先祖に感謝する日々
中通 柏﨑功夫
あの日
後山 山崎多喜子
直立した壁「津波」
扇洞 柏﨑博七
大六山林道を通って帰った
根白 白木澤行夫
吉浜の青い穏やかな海の眺め
増舘 菊地きみ子
震災後の大野公民館
大野 菊地正人
その時、根白部落は
根白 木村茂行
吉浜の農地復興を考える
大野 菊地耕悦
定置網大謀さんにインタビュー
根白 東 邦博
鍬台トンネルで停車した三鉄
三鉄 休石 実
[寄稿]組合の復旧・復興
漁協組合長 庄司尚男
[寄稿]吉浜の津波の歴史
郷土史家 木村正継
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